12月13日 最上川舟道開削の公開実験会
最上川の舟運を置賜地方へもたらすため、江戸時代初期に川底を開削する大工事が行われた白鷹町菖蒲の黒滝橋付近で、当時の工法を検証する公開実験会が平成21年12月13日(日曜日)開催されました。
実験を行ったのは、最上川の歴史や環境について研究を行っている佐藤五郎米沢中央高校副校長。この日は高さ3メートルやぐらから、長さ、胴周りが約45センチメートル、重さ約44キログラムの鉄錐を落下させる実験を実施。その破壊力を確認しました。
なお、今回の実験はすべて当時の工法を記した古文書に記載されている内容の2分の1の規模で実施。佐藤さんによれば、古文書には鉄錐の長さ、胴周りが90センチメートルと記述されていて、やぐらの高さも6メートルに達することが推測されるそうです。それを元に計算すると、鉄錐の重さは350キログラムほどと考えられ、作業には30人程度が動員されたそうです。
【参考】 最上川舟運の歴史と五百川峡谷
最上川は古代より人や物資を運ぶ舟道として重要な役割を担ってきました。江戸時代以降は北前船の重要な寄港地として酒田が北日本随一の繁栄を見せたことにより、最上川沿いの諸地域も京阪地域との交流が活発化。下り荷物には県内産の米、紅花、青芋などが京阪地域にもたらされ、同地域からの上り荷物には、塩、木綿、繰り綿など物資がもたらされたほか、様々な京文化が入ってきました。
しかし、最上川の流域には当時舟の通過が困難な地域もありました。特に白鷹町菖蒲から大江町左沢までの「五百川峡谷」とよばれる区間は、いたるところに岩盤が露出している上、流れも速く、舟が容易に通れる場所ではありませんでした(注釈)。
そこで、米沢上杉藩の京都御用商人であった西村成政(3代目久左衛門)と成俊(4代目久左衛門)は、元禄6年(1693)巨額の私費(現在で約17億円)を投じて、川底を掘削し、舟道を整備する工事に着工。翌1694年には完成し、これにより、米沢から酒田まで200キロに及ぶ壮大な舟運水路が完成し、置賜地方にも多くの繁栄がもたらされることとなりました。

白鷹町佐野原地区に残る舟道跡(今回の実験場所から下流に約3キロ付近)
(注釈)町内の「赤釜」や「大滝」地区は、舟がそういった難所を通過する際に舟を引く「舟引き人」によってできた集落と言われています(船曳集落)。
公開実験会の様子

報道関係者や郷土歴史家など約30人が集まりました

実験に先立ち、これまでの研究の成果を報告する佐藤五郎副校長

実験に用いられた鉄錐
その破壊力を検証しました

さて、実験の開始
44キログラムの鉄錐(おもり)を米沢中央高校の生徒8人で引き上げ…

佐藤副校長の合図で落下させました

実験1回目で用意した御影石(花崗岩)が真っ二つに割れました
佐藤副校長によれば、この付近の岩盤はもっとやわらかい材質とのことで、今回の実験の規模を考えると、開削には十分なエネルギーだったと推測されます

このあと、材質がより強固な石で実験してみましたが…

なかなか割れず、しまいには鉄錐をガイドする棒が折れてしまい、実験終了となりました

実験を終えた佐藤副校長です
山形県による最上川の世界遺産登録運動は昨年度をもって中止となりましたが、佐藤副校長の研究は県民に今後も勇気と夢を与えて続けてくれることと思います。
今後のさらなる活躍をご期待申し上げます。
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更新日:2019年03月29日