8月15日 旧暦の閏年のみお目見えする大名行列 「八ツ沼春日神社祭礼」
八ツ沼地区の鎮守、春日神社の祭礼が8月15日、にぎやかに行われました。
今年は旧暦の閏年に当たり、この年にのみ披露される大名行列が3年ぶりにお目見え。午前8時過ぎ、県指定無形民俗文化財の「角田流八ツ沼獅子踊り」の神社奉納でまつりが始まると、参勤交代の格式を持った約100人の大名行列が地区内約1キロを2時間かけて練り歩きました。
春日神社祭礼行列の由来
江戸時代の寛政年間(1789-1801)、左沢「百目木(どめき)」地区の最上川にある中州(島)、百目木河原では、漁の利権をめぐって左沢村(庄内松山藩左沢領)と中郷村(幕府領 柴橋代官所 管轄)との領地争いが激しくなっていた。
この頃、左沢や五百川地方は庄内松山藩の飛び地で、左沢に同藩の代官所があった。代官所でこの争いを聞いた夏草村の佐竹文右エ門は、寛政6年(1796年)、藩を代表して江戸幕府に訴訟を申し立てることになり、春日神社に願をかけて江戸に向かった。幕府の評定所では「百目木河原は、松山藩の左沢領分である」と主張し、自らの言い分を聞き入れてもらえるよう奔走。その結果勝訴し、領地は左沢領分と決まった。喜んだ庄内松山藩主は文右エ門に褒美を与えようとしたものの、文右エ門はこれを固辞。「勝ったのは、春日大名神の加護によるもの」として、「春日神社に大名行列を奉納させてほしい」と懇願した。寛政11年(1799年)に松山藩主からこの願いが認められると、村では宝暦元年(1751年)から行われてきた「御輿渡御(おみこしとぎょ)」を改め、参勤交代の10万石クラスの「格式」を持った大名行列を行うようになった。
当時の八ツ沼村の石高は820石。庄内松山藩の総石高が2万石で、そのうち左沢藩領分は1万2000石だったことから考えると、当地方きっての大きな村だったことがわかる。当時まとめられた資料「春日神社行列記」に記されている行列はなんと総勢282人。この人数から行列の壮大さを推し量ることができる。
江戸時代に毎年行われていた行列は、明治に入って旧暦閏年の8月15日に行われるようになった。また行列形態は古来の伝統を守りながら人数を100人前後に縮小し、今に伝えられている。
<関連リンク>
八ツ沼春日神社の大名行列(朝日町エコミュージアムホームページ)
午前8時。神事のあと、行列頭取の掛け声でまつりの開始が告げられました
獅子踊りの奉納が始まります
角田流八ツ沼獅子踊りの獅子役3人は、小学生の子どもたちが務めるのが習わし。
牡獅子(オジシ)、雌獅子(メジシ)、供獅子(トモジシ)の3人、天、地、人の笛3人、太陽、月、雷の太鼓3人で構成されています。
獅子を演じる子どもたちは、1カ月以上前から練習に励むそうです
<参考>
八ツ沼の獅子踊り(田川順一さんのお話/朝日町エコミュージアムホームページ)
笛や太鼓の音色と・・・
道化役の「三八(さんぱち)」が踊りを盛り上げます
獅子踊りの奉納が終わると、奴振り(やっこふり)が始まりました
勇ましい掛け声と息の合った動きに、訪れた人の目は釘づけになっていました
その後、大獅子も登場し、獅子振りを奉納
一連の神社奉納が終わると、「春日神社御祭礼」の旗を先頭にした一行は・・・
大名行列をなして地区内を練り歩きます
渇いたのどは地区の人から振る舞われる飲み物で潤し・・・
無病息災を願って、子どもたちは獅子に頭を噛んでもらいます
行列はこのあと、若宮寺でも獅子踊りと大獅子振り、奴振りを披露 。終了後には再び春日神社で奉納し、特別な一日を終えました
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更新日:2019年03月29日